Vol.7 ティオ・ペペ誕生秘話        中瀬航也


「ティオ・ペペ」。言わずと知れたシェリーの代表格。そしてドライ・シェリー」の代表格。現在、我々が「食前酒」として楽しんでいるのは「ドライ・シェリー」。つまり、それは「フィノ・シェリー」や「マンサニージャ・シェリー」に他ならない。

そして現代的な食前酒文化が誕生した20世紀始めには、著名なワイン研究家ワーナー・アレン氏にこううたわれたのだ…。

「ドライ・シェリーこそ完璧な食前酒である」
「Dry Sherry is perfect appetizer」(1933)

ちなみに、貴殿は何故「ドライ」と表記するかを考えたことがおありだろうか?

その理由は簡単。そう、それはそれまでのシェリーがドライでないものが多かったからなのである。

スペインでも古くから糖分原として知られた砂糖黍は、8世紀頃にムスリムによってアンダルシアに伝わり、その後の貿易でそれまで蜂蜜しか知らなかった多くの欧州を魅了した。特に英国では常に貴重で高価な象徴として扱われ、多くの貴族達はその黍糖をワインに入れるのを常としていた。実際1617年のイングランドの記録には「下品な人はビールやエールをむやみに飲むが・・紳士はワインしか飲まない。しかも、普通は砂糖を入れる」という文句も残っている。そしてそれは19世紀に甜菜糖が登場するまで、変わることなく行われ、そうした甘いワインを彼らは「リッチ」RICHとよんだ。

実際、当時イングランドで「サック」と呼ばれていた「シェリー」も、現在で言うところの「クリーム・シェリー」や、「アモロソ・シェリー」に当るものが主で、味は甘く色はと言えば褐色のものが普通で、1634年に登場した「ブリストル・ミルク」も、しばしば「リッチ・シェリー」と表現されていた。そして当時はまた、「食前酒」というスタイルもまだ確立していなかったため、どちらかというと「食中酒」や「食後酒」的に飲まれていたため、1834年発行のジャーナル紙にも「スープの後に一杯のドライ・シェリーを御薦めする」と有る他、1840年代には「ディナー・シェリー」、1856年には「ランチ・シェリー」という名のシェリーも存在した。

一方、黍糖に代わる糖として精糖技術が開発された甜菜糖は、1799年以降ナポレオンの推奨によって飛躍的に発達し1830年には砂糖黍市場に殴り込みをかけ、1880年には砂糖黍生産を追いぬくまでに成長を遂げた。それに興味深い事に英国では反比例するかのようにかつてリッチと謡われた砂糖の価値が下がり、紳士・貴族の中では反甘口的な「辛口嗜好」が誕生・発達していったのである。その証拠に1832年にはそれまで甘かった「ジン」が、そして1848年には辛口など考えられなかった「シャンパン」が、英国人の嗜好の元にドライに姿を代えていったのである。

そんな最中の「1837年」に「ティオ・ペペ」Tio Pepeも誕生した

実は、19世紀初頭に、フィノより先に発生していたドライ・シェリー「マンサニージャ」がオーストラリア人ジェームス・ブスビー氏によって紹介され、英国人の中で静かな評判を買っていたのだが、それを聞きつけたのかは定かではないが、1835年、弱冠23歳のある若者が伯父の助けを借りて小さなボデガを創業し、ロンドンに10樽のシェリーを輸出した。これが後にティオ・ペペを世に紹介することとなるゴンサレス・ビアス社の始まりである。

創始者のマヌエル氏には、その開業を助けてくれた伯父「ホセ」がいたのだが、実はこの伯父には兼ねてから好きなシェリーがあった。それはヘレスの西サンルーカル村で作られるマンサニージャというシェリーであった。そしてそんな伯父ホセがある時、「ワシの好きなあのマンサニージャみたいなシェリーを、ワシの為に造ってはくれないかのぉ〜」とマヌエルに強請ったという。そして、この願いに応えようとマヌエルはシェリーを探し、伯父ホセの為のソレラを組んだ。1837年のことであった。大層喜んだホセは、自分の好きなハモン(生ハム)をそのソレラの上に吊るし、ハモンを片手にマヌエルが造ってくれたシェリーを楽しんだという。これは今も変わらぬ黄金の組み合わせであろう。

そしてマヌエルは、当時のヘレスではまだ甘い褐色のシェリーが主だった中、この伯父のシェリーがそれに反し上品で澄んだシェリーであった為、1844年以降この特別なファイン・ワインVINO FINOを伯父のニックネームである「伯父→ティオ」「ホセ→ペペ」→「ティオ・ペペ」と呼ぶ事にした。

その後、マヌエルのパートナー等によって「ティオ・ペペ」は世に出ることなり、マヌエルの手元には、それを大層気に入った英国の顧客から「We shall see what can be done with the very, very, pale wine that you so highly recommend」という感激の手紙まで届いた。
実はこの手紙の主こそ、後の1863年以降、マヌエルのビジネス・パートナーとなる英国人「ロバート・ブレイク・ビアス氏」であったのだ。

こうしてゴンサレス・ビアス社のシェリーとなった「ティオ・ペペ」は1856年以降、積極的に英国に輸出され、1871年には瓶詰で出荷されるようになり、「ドライ・シェリーの代名詞」として、そして「食前酒のシェリー」として、もはや知らぬ人はいない存在となったのだ。

ちなみに日本にシェリーが入ってきたのは明治時代。かつては「しゑりー酒」と表記されていたという。またこの「ティオ・ペペ」が本格的に入ってきたのは1971年。瓶詰されるようになってから、ちょうど100年後の事であった。

最後に蛇足ではあるが、このティオ・ペペには、その輸入開始の裏に英国に赴任時代ティオ・ペペに見せられた元吉田首相の助言があったというエピソードや、かの探偵物語で多くのファンを魅了した松田優作が愛飲していたという事でも有名だ。

上記のポスターは、フラメンコの発祥地でもあるヘレスのイメージを、ギターリストのマスコットで表したもので、第二次世界大戦中のゲルニカの悲劇以降起こった、英国での不買運動によって急激に減少した需要を取り戻す為に考えられたキャラクターである。

(Vol.1に加筆されたものです)