フィリピンを訪れ街を散策していると、タガログ語であるはずの街の声が、ときにスペイン語に聞こえることがある。
そういえば街中で食事をすれば、スペイン好きには聞き慣れた「アドボ」などの料理名を耳にするし、注文するときの数字の読み方は「ウノ、ドス、トレス」と、スペイン語そのものである。また、地元で有名なスーパー・マーケット「ガイサノ」に行けば、必ずといって良いほど「カルロス一世」を始めとする数種の「ブランデー・デ・ヘレス」を目にする。
そもそも、フィリピンという国名も、どうもタガログ語の響きとは違う気がする・・そう、この聞き慣れた「フィリピン」とは、元はスペイン語なのである。
冒険心に燃える一人の男
台湾の南に広がる島々である現在のフィリピンには、マレー半島からの移住者が移り住み「バランガイ」という集落群を形作っていた。10世紀になると当時「琉求」と呼ばれていた台湾を始め、中国の「宋」との間で貿易が盛んになり、12世紀頃にはバランガイは中国の言葉で「サンショ」や「マイツ」と呼ばれるようになる。そしてスペインに遅れる事、約400年後の13世紀にムスリム(※1)の影響を受け始めた。
この地域に対するムスリムの影響が、地中海地域などに比べて遅れたのは、海路の不便さが主な原因と考えられるが、他にも中国の例がそうであったように、古くから豚を食べる文化・習慣があった(※2)のも理由の一つかもしれない。そしてさらに16世紀初頭、反ムスリムで、かつ豚を好む民族がこの島々に現れた。そうスペイン人である。
1494年の世界を二分したトルデシリャス条約 (※3)以降、ポルトガルはいまだ成果の少ないスペインを尻目に、インド航路の発見後は精力的に対インドやアジア交易に力を入れていた。そんな貿易船の一隻に、冒険心に燃える一人の男がいた。
名を「フェルナン・マガリャンイス」、通称「マゼラン」と呼ばれたこの若いポルトガル人は、始めインド航路での香辛料貿易で活躍し、ある時その意欲から時のポルトガル王マヌエル一世に「貿易船に船長として志願したい」と懇願した男だった。
その意欲とは裏腹に彼の申し出はあっけなく却下されるが、夢を捨てきれない彼があきらめるはずは無かった。そこで彼は条約によって世界の反対側(西側)の交易権利を有していたスペインに移住し、結婚によってスペインでの市民権を獲得する。そして、いまだ前例の無い西方航路への冒険心と共に時のスペイン王「カルロス一世」に懇願したのだ。
シェリー酒とビールが飲まれる国へ
こうして彼は後に海峡にその名を残す航海に出るのだが、その航海の間、現在のセブ島に隣接するマクタン島で改宗と交易のいざこざで起こった戦いで、あえなく命を落としてしまう。これが、くしくもこの南の島とスペイン人との初めての出会いであった。
その後、カルロス一世はメキシコの副王ヴェラスコを通じてこの島々に遠征隊を送った。そして4度目のヴィラロボスによる遠征の際、当時スペインの皇太子だったフェリペ二世の名に敬意を表し、島々に「フィリピン諸島」という名がつけられたのである。1542年春の事であった。
1556年にカルロス一世が退き、フェリペ二世が即位すると、人一倍カトリックの伝道に熱心だったフェリペ二世は、その信仰心を原動力にネーデルランド(※4)にはカトリックを強制し(※5)、トルコでは対オスマン艦隊の一艦隊として「レパントの海戦」にも参加した。そして、時同じくして達成した「フィリピンの征服」以後、フィリピンのカトリック教国化に努めたのである。
その甲斐あってか、現在フィリピンの約82%はカトリックとなり、キリストの血を象徴とするワインの蒸留液「ブランデー・デ・ヘレス」と、キリストの身体を象徴するパンから出来た液体のパン「ビール」(※6)が飲まれる国へと変化を遂げたのである。
つまり、スペインで見かける「サン・ミゲール・ビール」を飲みながら「セルド・エン・アドボ」(豚の漬け焼き)を食べ、「ブランデー・デ・ヘレス」でしめる・・という情景が、このフィリピンでも見られるのは、さして不思議でもないのかもしれない。
このラベルのブランデー・デ・ヘレス「フェリペ2世・ソレラ・レセルバ」は、アインシュタインが相対性理論を発表した年である1905年から熟成をし続けているというもの。
このボデガ(醸造・蒸留所)は、1795年フランシスコ・パウル氏によってカディスで創業を開始し、1857年、彼の孫が引継ぎ、現在の名称であるアグスティン・ブラスケス社となった。現在は1973年に同社を吸収したドメックの傘下にある。また同社の看板シェリーであった「カプチーノ・パロ・コルタド・ヴィエホ」は、現在ドメック社のオールド・シェリー・シリーズとして販売されている。
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