リサイタルに寄せて


「扉が開くとき」

堅く閉じた扉の内側にいて、どこにも行かれないような気分になることが時々あります。
そんなときふと、何度目かの劇場公演を終えられた時に先生が言われた言葉を思い出します。
「またフラメンコの新しい扉が開いた気がする」。
いつか先生に、どうやって扉を開けるのかきいてみたいと思っていました。

劇場という場所は、主演者と共演者が、またフラメンコと従来のフラメンコにはないものが接する界面です。そして界面とは、二つの異なるものが出会い、相互作用を起こす場所です。

それまで、フラメンコの魅力は舞台と客席が接近した狭い場所で、よく知った純粋なフラメンコ人同士が繰り広げる時にだけ発揮されると思っていました。
でも、界面がもたらす作用の前にこの思い込みはたちまち消し飛んでしまい、その時から劇場は新しいことと出会う魔法の空間になりました。

そしてある時の劇場公演で、扉は自分でこじ開けるのではなく誰か他の人が開けてくれるんだと腑に落ちた瞬間がありました。
いま向き合っている相手がどういうふうに自分と違う立ち位置からこの場所を共有しているのか、相手はいったい自分に何を求めているのか、自分はこの空間でどんなフラメンコができるのかということを考えている人の前に自然と扉が開くのではないか。
扉は自分じゃ開けられなかったのです。お互いの扉をノックしあいながら、少しずつ開いていく場所に起こった風が空間を行ったり来たりしてあたたかく大きなうねりとなって、どこかへと観客までも連れていってしまう。

扉の開く瞬間に居合わせたくて、CONCIERTO FLAMENCOに足を運んでいるのかもしれません。

平野真理

円熟した入交恒子の世界を

伝統芸能をいつの時代にも息づかせるには、その時代の文化に融合させた変化が必要です。とは言え、その進化はともするとそのものの「こころ」を忘れて変化してしまうという危険性もはらんでいます。それは、フラメンコの世界でも例外ではありません。

最近「プーロ(純粋)フラメンコ」という言葉を耳にすることが多くなりました。それは何かを置き忘れて進化していくモデルノ(モダン)フラメンコへの戒めであるような気もします。フラメンコにおける進化とは、感情に動かされた芸術的な改良であるべきものです。

今、フラメンコは他の舞踊とクロスオーバーし、また様々な音楽と触れ合って、その世界を広げています。が、大切なのは時として「原点」に戻り、基本姿勢を確かめるということも必要です。

'93年のCONCIERTO FLAMENCOVol.1以来、入交恒子はプーロフラメンコとモデルノフラメンコの接点を強く意識しテアトロ(劇場)フラメンコに挑戦しつづけてきました。それは、本来酒場で発展してきたフラメンコを、舞台芸術に昇華させるべく挑戦ともいえます。

このCONCIERTO  FLAMENCOも今回で10回目をむかえ、プーロフラメンコを強く意識しながらもソフィスケートされた展開をみせる今回の舞台は、テアトロフラメンコへの彼女のひとつの答えでもあります。

平成18年度の文化庁芸術祭参加公演にて「優秀賞」を受賞してなお、円熟した入交恒子の世界を楽しんでいただきたいと思います。

演出 小島武士

 

スカッとする舞台

入交さんとは旧知の間柄でしたが、昨年、初めて舞台を見せていただきました。一言でいえば「見終わってスカッとした気分になった舞台」。帰り道、なぜもっと早く見に来なかったのか、と後悔したほどでした。

フラメンコの公演に出かける機会は多いのですが、この時ほど舞台に集中して楽しめたことはありませんでした。言い換えれば、難しいことは何も考えなくていい、いま目の前の舞台で繰り広げられている踊りと歌、ギターだけを見て聴いて、感じればよかったわけで、だから専門知識のない私でも十分に楽しめたのだと思います。

フラメンコの本来の魅力、醍醐味というのはそこにあるのでは、と私なりに思う次第です。このことは入交さんがふだん仰っている「舞台にいる私たちと客席のお客様がフラメンコの魅力を共有できる舞台にしたい」ということと一致するのかもしれません。本当に、客席で見ているこちらもどんどん楽しくなって、まさに舞台上の人たちといっしょにフラメンコを楽しんでいるかのような思いでした。

スペインまで出かけなくても、日本でこんなに楽しめるフラメンコ公演があるなんて素晴らしい。まだフラメンコを知らない多くの方々にも、ぜひ会場に足を運んでいただきたいと思います。願わくば、若い女性たちが入交さんの舞台を見て、フラメンコの楽しさ、かっこよさに出会い、その中から将来の名ダンサーが誕生してくれたらいいのに、などと考えてしまいます。

テレビ局勤務 山県清繁