スペイン生活20年。一時帰国でライブコンサートとクルシージョを開催、日本での活動を始める横田万紀さん。

 スペイン滞在20年の横田万紀さんが一時帰国、20年ぶりのライブコンサートとクルシージョを行う。今後は活動の拠点を日本に移したいという横田さんに、コンサートへの思いと今後の予定、スペイン生活について尋ねた。



横田万紀帰国ライブコンサート
“Sevilla, por lo puro"(セビージャ〜ピュアに)は、新宿/エルフラメンコで
11月29日 (水) 19時 (18時15分開場)から開催
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12月15日〜24日に開催されるクルシージョの詳細はこちら
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取材・文 藤戸良彦


−今回のライブコンサートはどのような経緯で決められましたか?その意気込みを聞かせてください。

1986年にスペインに渡ってから、ちょうど20年。来年(2007年)からは活動の軸足を日本に移していこうと考えているのですが、今回がその第一歩になるんです。

最も伝えたいことは、セビージャの生活の匂い。楽しいことも辛いこともたくさんありましたが、決して表面的なものではなく、それらをひっくるめた20年間の生活の匂いを感じていただきたいです。

−横田さんがスペインに行かれた当時というのは、どういう時代でしたか?

スペインがスペインらしくあった、最後の時代だったと思います。決して豊かではなかったけれど、いろんな面で、とても人間らしさがある国でした。今は経済力がつき、スペインもずいぶん変わりましたけど。

フラメンコも同じ。私がスペインに渡ったころは、まだ黄金期を作った錚々たるアーティストたちが大勢いました。ファルーコには踊りを教わりましたし、フェルナンダ・デ・ウトレラの唄も生でたくさん聴くことができた。今の人たちができない経験をしたという点では、すごくいい時代だったと思います。

当時は高橋英子さん、俵英三さん、少しあとにAMIさんといった方たちがスペインに住んでいましたが、すでに皆さん、活動を日本に移されていますよね。その意味では、私がほとんど最後に残ってしまいました。

−スペインに行かれたのは、どのようなきっかけでしたか?

私は生来、何ごとも始めると突っ込んでしまう性分なのですが、それまで日本でフラメンコをやっていて、当時の日本ではわからないこと、勉強できないことがたくさんありました。

フラメンコを理解するには、その歴史や人々の暮らしぶりなど、実際にその地に住んでみないとわからないことがたくさんあると思い、決心しました。

85年に友人が事故で亡くなったのですが、その後、出版社で担当していた著者が40代の若さで、また伯父が病気で亡くなったことも重なり、私のスペイン行きの思いが固まりました。


渡西2年目、1988年には 現地の“EL PAIS”紙に掲載された

−それまで、日本ではどのようなフラメンコ歴だったのですか?

早稲田大学で演劇活動をしているときに舞踊に接近しはじめ、いろいろなジャンルの踊りを見る中でフラメンコに出会って、これだ!と思いました。私は集団生活が苦手で、一人で踊れるということは魅力の一つでしたが、のちにフラメンコもギターや唄とのハーモニーが大切だと思い知らされました。

今にして思えば、フラメンコを始めた当初からスペインに行く意思はあったみたいですね。基礎を勉強した段階で勤めていた出版社をやめて、タブラオや舞踊団の公演に出演、86年にはソロコンサートも行いました。スペイン語も渡西前に真剣に勉強し、行く頃にはかなり理解できるようになっていました。

−スペインに渡ってからは、どういう活動をして来られましたか?

セビージャに住んで、最初の2、3年はフラメンコのグループに入ってフェリアなどの仕事をするなど、怖いもの知らずで活動していました。ビエナルの公演にも出演し、現地の新聞に取り上げられたこともありました。

ただし当時はいいフィエスタがたくさんあって、のちにフィエスタのなかに本当のフラメンコを見出して、舞台を忘れていた時期が長くありました。ただ、これも時代の流れで、今はテアトロでの公演が増えて、スペインでもフィエスタそのものが減ってしまいましたけど。

3年ほどたった頃、セビージャに貸しスタジオができたんです。当時は個人のアカデミアはいくつかありましたが、貸スタジオというのはほとんどなかったんです。私など、行きつけのバルの休憩時間に、板をひかせてもらって練習していたくらいです。

メキシコ系アメリカ人の踊り手が始めたそのスタジオに練習に通っているうちに、彼が一時的にアメリカに帰ることになって、管理を任されることになったんです。それで、「半年たってスペインに戻らなかったら、このスタジオをMAKIに譲る」という契約をして。で、彼は帰ってこなかった。私がスタジオを運営する第一歩となりました。

−それが今の「ESTUDIO FLAMENCO ISBYLIA」ですか?

いえ、フェリア通り近くからサンタ・フスタ駅の近く、歩いて5分くらいのところに移転し、94年に新たに始めたのが現在のスタジオです。もちろん、家賃を払って借りているわけで、始めた当時は大勢の人が来ましたが、今はスタジオも増え、経営もビジネス化し、私のような個人では厳しくなりましたね。その意味では、個人のスタジオ経営の時代は終わりつつあるなと思います。

−その点も含め、ずいぶん苦労されたことと思います。

それはもう、スペインで生活していくこと、生きていくことに必死でした。渡西して以来、初めて日本に帰ったのは7年目のことでした。帰りたくなかったというより、正直、帰る余裕がなかった。向こうの社会に溶け込むまでには10年以上かかりました。やはり外国人として、歴史や文化になじむというのは大変なことです。

あと、フラメンコの世界においても、人種差別や偏見というのは普通にありましたね。私としてはスペイン人と対等に闘っていこうという覚悟を持って接していましたが、いろいろな裏のことも思い知らされました。

フラメンコにおいても、背景的なことを知るのにはたいへんなハンディがあります。たとえば20年前以前のことを聞かされても、スペイン人ならたとえその時代に子どもだったとしても、何となく理解できますが、私の場合、知識としてしか知らないのですから。20年前はスペインにいなかったわけで、つまり生まれていないのと同じですから、実感としてわからないのです。

−そのへんは、スペインへのフラメンコ留学を志す後進の人たちへのメッセージにもなりますか?

何かを始めるということは、自分のアイデンティティを新たに創造するということ。とにかく一度自分をゼロにしてから取り組む勇気を持ってほしいと思います。

日本で生まれ育ったという観念や先入観を捨て、自然体でフラメンコに接してほしい。ゼロにならないとわからないことがたくさんありますから。特にフラメンコというのは、それくらい大きくて深いものだと思います。

−今後はどのように活動していかれますか?

自分の踊りを深めていくと共に、日本とスペインの架け橋となるようなフラメンコのプロジェクトを実現させていきたいです。経験を生かした、私にしかできないこともあると思うんです。

とりあえず来年はアンヘリータ・バルガスを招聘したい、と思っています。私の好きなプーロフラメンコを、より多くの人たちに堪能していただきたいと思っています。

−今回はクルシージョも開催されますね。

クルシージョは去年も一時帰国した際に開催したのですが、今回は特に、渡西して以来初めてベクトルを日本に向けることになるわけで、力を入れたいと思っています。

12月15日から24日まで、フラメンコ協会事務局の地下にあるスタジオで行います。長年のセビージャ滞在から得た生活哲学に基づいて、踊ることを立ち方、歩き方や仕草、たたずまい、感情の溜め方、表し方などを、具体的にわかりやすく説明したいと思っています。興味のある方はぜひ受講してみたください。

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「(今回のライブコンサートはセビージャのオマージュでは、ありません。現在まで20年近くの年月を生きた、灼熱の乾いた地。その時空の明暗を負い、日本という私の原点にベクトルを振って立つとき、どのような思いが、記憶が蘇るのでしょうか?フラメンコは、みずからに還り、人の心の源初に遡(さかのぼ)る、果てしない試みです」

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