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とにかく日本でカンテのアフィシオン(愛好家)を
育てることが先決だと思う
フラメンコとの出会い、プロになろうとしたきっかけを教えてください。
フラメンコに出会ったのは大学のギター・クラブ時代。ゴルぺとラスケアード奏法がやたら格好良くてね。4年間無我夢中で弾いてたな。
学生時代の思い出に、とスペインを旅行した時にね、サクロモンテ(グラナダ)の洞窟の前でギターを弾いてる年寄りのヒターノがいたんだよ。「こんな嬉しそうな顔してずっとギター弾いてられたら、どんな貧乏してたって幸せやろなぁ」と思ってね、その時、プロになる決心をしたんだ。で、上京してエンリケ坂井氏に師事。ピザ屋でバイトしながら、その上の踊りの教室で練習伴奏をしていたんだ。
ギターを始めたのは小学生の頃だよ。小さい頃ピアノをやってたんだけど、僕はずっとギターに憧れてた。自分ではよく憶えてないけど、小学校の帰り道にわざわざ寄り道して、楽器屋の前で毎日ギターを眺めてたらしいんだ。半年くらいそんな日が続いて、両親がギターを買ってくれたんだよね。
スペインへ渡ったのはいつ?そしてデビューは?
エンリケさんに師事してるだけで僕は充分に満足してたけど、師の強い勧めにしたがって1982年に2年間の予定でスペイン留学を決めた。セビージャに到着して最初の1年間は、午前中マノロ・マリン、午後エンリケ・エル・コッホのスタジオで踊りの伴奏をしていたんだ。
初めての仕事は、当時セビージャにあったグアヒーロというサラ・デ・フィエスタ。そこで弾いてた友人のギタリストにフェスティバルの仕事が入ったので、トリで1日だけ臨時採用ということになったんだ。ローリ・フローレスの踊りの伴奏でね。そして2年目くらいにマラガ県トレモリーノスにあったハレオというタブラオに頼み込んで働かせてもらった。
マドリードにもいらっしゃったんですよね?
当時マドリードからセビージャに来ていた先輩の日本人ギタリストが、アモール・デ・ディオスのレベルの高さをしつこく力説するもんだから、「帰国する前に一度は」と思い切って、緊張しながら行ったんだよ。ところがフラメンコ的なレベルは僕には期待はずれだったね。でも小遣い稼ぎに踊りの伴奏しながら、半年滞在したな。
結局、スペインには2年の留学のつもりが20年に?
ラッキーなことにだんだん仕事がくるようになったので、なんとか生活できるわけ。それで5年がすぎて日本へ一時帰国。そこで日本のフラメンコ界の現状を目の当たりにしてショックを受けた。レベルはともかく、その価値観の本場とのあまりの違いというか、求めるもの、方向性が全く異なっていたからね。今から思えばそれはカンテがなかったからだと思う。
拳を叩いて唄っているドローレス・アグヘータとともに
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「これでは決して楽しくギターを弾けない」。そう思ってフラメンコのあるアンダルシアにやっぱり留まろうと決意したんだ。とはいえ、ギターで簡単に飯を食っていけるわけはないから、ガイド、通訳、コーディネーター等、当地で暮らしていくために何でもやったよ。今から思えばどの仕事も、僕としてはフラメンコを通してヒターノの生活に深く関わっていたし、スペイン人達との交流が多かった分、他の人とは一味違った良い仕事が出来たと思ってるね。
もちろん仕事のかたわら、日本に本場のフラメンコの常識を広める努力をしたよ。ヘレスのアナ・マリア・ロペス(舞踊教師)とその弟子(11〜13歳の子供)を1人連れて、1年に1回帰国。バイレのクルシージョを始めた。彼女(教師)はブレリア・デ・ヘレスを唄わせると抜群に巧く、「踊りがコンパスに乗って如何にカンテと絡むか」という、日本に最も不足しているフラメンコの重要なポイントを、いつも受講者を愉しませながら教えるんだ。
「生活のため」の仕事にピリオド。
今またギタリストとして新たな旅立ち
堅気(?)の仕事をしながらも、本場ならではのフラメンコを愉しんでその分勉強はしてきたけど、片手間にギターを弾きながらの勉強に限界を感じるようになってね。フラメンコ・アーティスト達との付き合いも少しづつ疎遠になるし、カンタオール達も昔と違って、仕事でしか唄わなくなってきた。
要するに、僕の好きなカンテの伴奏をするにはまたプロになるしか道はなくなったわけ。家内からの強い勧めもあって、一念発起。生活への不安はあったけど、その頃ちょうど永住権も手に入った。思い切って通訳のライセンスを取り下げたんだ(税金と社会保険を払わなくて済むように)。
それでどんな活動を始めたのですか?
アンダルシアで仕事にありつけたら、勿論それが最高。だけど、待っていても勝手に仕事がくるわけではないので、自分で仕事を作った。
プーロ・フラメンコのエッセンスを教えてくれたディエゴ・デ・モロン
「カンテ・フラメンコへの招待席」
●2月20日、開演19:00
コミュニティプラザ大阪3Fコンポホール
前売り4,500円 当日5,500円
問い合わせ:080−5718−1725トゥリアナ企画
●2月26日、開演19:30
東京エル・フラメンコ
前売り5,000円 当日5,500円
問い合わせ:090−2017−3500オフィス・ラモン
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まずは恩師のエンリケさんや友人に頼んで、カンテ・リサイタルを日本で企画。プーロ・フラメンコの筆頭とも言えるアグへータ一族のドローレスを連れて帰国したよ。日本と言えどもやはり本番。凄まじい気迫で彼女は唄った。大成功。聴きに来てくれた大勢の人が感動してくれた。
とにかく日本でカンテのアフィシオンを育てることが先決だと僕は思う。それで、バイレのクルシージョで帰国する度に2人の日本人カンタオール、ベテランの滝本正信、若手の精鋭、石塚隆光と組んで、「日本を駆ける唄」というユニットで01年1月から札幌、新潟、東京、神奈川、大阪、神戸、広島、大分、福岡と、日本中でカンテとギターだけのコンサートを始めた。
これは敢えて日本人3人だけで組んだ企画なんだ。結果は上々。少しずつ日本のカンテ・ファンも増えてきてると感じるね。最近では他でも同じような企画が出てきているし。
それと同時進行の形で、スペインから若手の実力派ヒターノ、イスマエル・フェルナンデスを招聘し、日本各地で2人でカンテ・リサイタルを開き始めた。こちらの反応も勿論上々。やるたびに毎回確かな手応えを感じるね。
スペインでの活動について教えてください。
通訳の仕事をしながらも、アンドレス・マリンの踊りの伴奏でマドリードで弾いたりもしたよ。最近はありがたいことに、去年からセビージャのカルボネリアで、週に2日、ルイス・アグへータのカンテ伴奏の仕事にありついた。
ヘレスのカンテ・フェスティバルに出演するのが長い間の僕の夢だったけど、今年9月に開催されたファミリア・カンタオーラのロス・アグへータの日にドローレスのカンテ伴奏の仕事が入って、とうとうヘレスの大舞台で弾くことができた。ドローレスのCD録音の際もマラゲーニャを伴奏した。来年3月のフェスティバル・デ・ヘレスにも彼女の伴奏で出演しますよ。
20年間のスペイン生活の厚み
20年前は今と比べると、別の意味でフラメンコの宝庫だったね。今ではもう亡くなった大御所の大スター達が現役で活躍していたし、フラメンコと他の音楽や舞踊の違いがはっきりしていた。フラメンコに対する評価も厳しかった。
舞踊性とか音楽性よりも、皆がそのフラメンコ性を競っているような状況だったから、我々外国人にとってはさらに難しく、どうやって勉強をすれば良いのかさっぱりわからなかった。僕にそれを教えてくれたのはディエゴ・デ・モロン。伝説的ギタリスト、ディエゴ・デル・ガストールの甥だ。彼の最小限の「黒い音」で創る間、そこにプーロ・フラメンコのエッセンスがあった。
最近のギターはやたら音が多く複雑だけど、伝わってくるものが少ないな。弱い。でも若手ギタリストの中ではディエゴ・デル・モラオ、そしてニーニョ・ホセーレがいいね。
これからの活動の拠点はやはりヘレス?セビージャ?
そうありたいけど、やはりギターだけではこちらで生活していけない。活動の拠点を日本へ移そうと思っている。ここ3、4年間は、スペインに住んで年に2回ほど日本へ行ってたけど、そのサイクルを逆転することになると思う。日本で仕事をするなら出来るだけ、既存の仕事をもらうのではなく、スペイン生活20年の経験を生かせるような仕事をしたい。一応今のところは、年に2回のバイレのクルシージョ(夏にアナ・マリア・ロペス、冬にコンチャ・バルガス)を続けて行くつもり。
そして年に1回は、本場からカンタオールを招聘してカンテ・リサイタルを続けていきたい。来年2月20日(大阪)と26日(東京)に、「カンテ・フラメンコへの招待席」と題してコンサートを開く。招聘カンタオールはイスマエル・フェルナンデス。そしてその息子で6歳になるエル・ボラの2人。3人だけのあくまでもシンプルな形で、中身の濃いものをやろうと思っている。聴きに来てくれた人全員に、「感動」のおみやげを持って帰ってもらいます。
最後にフラメンコを志す人、留学する人へひと言。
とにかくアンダルシアに来ないとお話にならないな。感性の扉を全開にして、本場のフラメンコにどっぷりと浸かることだよ。そして、最近ギターを志す人はやたらと自分のファルセータを創りたがるけど、それよりもまず、採譜をすること。採譜をする作業の中ではじめてフラメンコのエッセンスが見えてくるものなんだよ。
取材・文 角田美恵子
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