スペイン在住15年!本場仕込みのフラメンコ舞踊家として、2年前から活動の場所を日本へと移した小林弘子さん。スペインで長年、紆余曲折を経て主婦として、母としても生活してきた小林さんが語るフラメンコ観、人生観には説得力があります!味わい深いお話を訊くことができました。

 

フラメンコスタジオCARMELAの発表会は
エル・フラメンコで9月18日(水)19時開演
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自分が学び、感じてきたアイレを
生徒にダイレクトに伝えたい

 スペインにはトータルで15年住んでいました。結婚して渡西したときは、むこうに骨を埋める覚悟で行ったんです。もう日本へは帰って来れないかもしれない、という気持ちで。でも、いろいろ状況の変化もあって、今はこうして日本に住んでいます。

 日本に帰ってきて、2年前に初めて自分の教室をもちました。教えるということは、本当に勉強になりますね。「先生」と呼ばれる人は、常に精進する人でなくてはならないと思っています。そうしないと、生徒が成長する道を阻んでしまいますから。ですから、いま私も、時間が許す限り勉強するよう心がけています。

 私の教室では、できる限り代教は立てないことを方針としているんです。人を介していくと、徐々にスペインのアイレ(空気、雰囲気)が薄まってしまいますから。生徒になるべくダイレクトに、私が学び、感じてきたアイレを伝えるのが理想だと考えているんです。

日本とスペインを行ったり来たりの20代。
そして結婚

 最初の渡西はマドリッドへ、1年間のフラメンコ留学でした。日本でフラメンコを始め、数年お教室へ通った後の決断でした。マドリッドでは朝から晩までお稽古していましたね。シロー、パコ・フェルナンデス、マリア・マグダレナらに習って、帰国後もレッスンを続けました。とにかく20代のころは、日本とスペインとを行ったり来たりの生活をしていたんですよ。


●好きなアーティスト タティアナ、カルメラ・グレコ、ファルキート
●好きなヌメロ ソレア、ティエント
●趣味 映画鑑賞
 そんなある日、日本で主人と知り合ったんです。新大久保にある「カサ・デ・アルティスタ」でね。その日はペーニャで、みんなでわいわいやっていたら、彼が突然歌ってくれたんです。当時、彼は新宿の「エル・フラメンコ」に出演していましてね。たまたまあの日、知人に連れられて「カサ・デ・アルティスタ」に来ていたんです。

 その後、彼との文通が始まりました。たまにスペインまで会いに行くこともあったけど、もちろんそんなに頻繁には会えませんからね。文通生活4年間の後、晴れて結婚したんです。こうしてスペインでの結婚生活が始まりました。

踊りを断念、子育てに専念していた
マドリッドの日々

 はじめはセビージャに住んでいたんです。その後、マドリッドに長く住むことになるのですが…。

 セビージャでは、マノロ・マリンのアカデミアに通っていました。とにかくこの町はマドリッドと違って、踊りが自然だなぁ、と思いましたね。パソ(ステップ)がすごく自然なんです。マドリッドのは人工的、技巧的なんですよ。私にとってはセビージャの踊りのほうが体にすんなり入ってきて、好きですね。でも、今はどこの踊りでも技巧的な傾向がありますよね。私はいずれまた、もとに戻ると思っているんですよ。

 セビージャには、生活の中にフラメンコがあるのを感じます。街中で子供たちがカスタネットをたたいていたりだとか…。マドリッドではそういう光景を目にすることはありませんからね。

 セビージャのあと、マドリッドに引っ越しました。マドリッドの家はアモール・デ・ディオスまで徒歩15分!スペイン国立バレエ団のお稽古場も目の前にあって、よく見学に行きました。私にとっては好都合でしたね(笑)。

 私は比較的、早く妊娠したので、実は結婚してスペインへ行ってからは、はじめの数年間は踊りができませんでした。子育てに専念していたんです。その間は全く踊っていなかったんですよ。

 実はそのころ、もう踊りはやめようと思っていたんですよ、本気で。子供たちが喘息だったんです。二人とも体が弱くて、主人は仕事で家を空けていることが多いから、私ひとりで全てをやらなくてはなりませんでした。

 まして、外国の地なわけですからね、苦労が何倍にも膨れ上がってしまって…。踊りなんてできる状態ではありませんでした。

踊りを再開して、
本当にフラメンコが好きになった

 踊りはやめた、と思っていたのですが、その数年後、今度は私が体を壊してしまったんです。日本へ帰ってきたときに倒れちゃったんですよ。お医者さんには、原因はストレスだから体を動かすように言われました。心の疲れを体の疲れに変換しなさい、と。

 そこで、だったらまた踊ろうかな、という気持ちになったんです。ずっと、踊りたいとは思っていたんですね、心の奥底では。

 踊りを再開してみると、自分の体が全く思うように動きませんでした。でも、たとえ思うように動かなくても、体を動かして汗をかくことが嬉しくて仕方がなかったんです。それからですね、本当にフラメンコが好きになったのは。

 若いときはとにかく必死で、とにかくうまくなりたくて、フラメンコを本当の意味で楽しむ心の余裕がなかったんだと思います。いつも焦っていたんでしょうね。

 でも、一時期、踊れなくなったり、生活に追われたり、そういう人生の苦労を味わったからこそ、ただ踊っていることが楽しい、生きていることが嬉しい、と思えるようになったんだと思います。すると、うまいとかヘタとか、ということはどうでもよくなってくるんですよ。


アルカラ・デ・グアダイラのフェリアで、家族と
 フラメンコは人生に近いな、とつくづく感じましたね。私は私が生きて感じてきたことを踊ればいいんだ、と思いました。それからまた、踊りが生活の中に入ってきたんです。幸いアモール・デ・ディオスが近くにあったので、毎日お稽古に通いました。
 そして夕方、子供たちを公園で遊ばせながら、私はその横で、その日のレッスンの復習をしていました。コンクリートの上で、普通の靴を履いて。「もし膝を痛めたら…」と心配でしたが、全然そんなことは、ありませんでした。

またしても踊り断念の危機。
恩師のひとことに救われた

 お稽古に通いだして数年たったころ、お稽古にかけるお金がなくなってきました。日本から円をもってきてペセタで支払うのはそれほどきつくはないわけですが、うちの場合、夫の収入はペセタですから、ペセタを稼いでペセタで支払うというのは、やはり厳しいんですよ。お稽古へ通う道すがら、毎日毎日お金のことを考えていました。

 そんなある日、もう悩むのやめた、と思ったんです。「お金がないから習えないけど、大好きなカルメラの踊りは見たいから、毎日見学に来る」と、当時習っていたカルメラ・グレコに伝えようと決心してお稽古に向かったその日、彼女が私を呼んで言ったんです。

 「あなた、お金あるの?」
そこで私は「実はないの。だから来週から見学させてもらおうと思ってたの」と答えました。そうしたら、なんと彼女は「そんなこと言わないで、毎日お稽古に来なさい」と言ってくれたんです。

 その後、お金ができたときに彼女に払おうとしたら、「子供に洋服でも買ってやりなさい」と言って受け取ってくれませんでした。そんな状態で、気づいたら2年以上もカルメラにお世話になっていました。実は、今の私の教室の「カルメラ」という名前は彼女からいただいたんですよ。

 今になって思うのですが、どうして彼女が私にここまでしてくれたかというと、きっと彼女は私の境遇を分かってくれていたんだと思います。彼女も女手ひとつで子供を育てていましたからね。女の人生の厳しさを知っていたんですよ。だから、言葉にしなくても私の痛みや辛さを分かってくれていたんでしょうね。

発表会は中上級クラスのソロを。
スペインは私に人生の厳しさを教えてくれた場所

 いま、教室のレッスンは初心者クラスが1時間、その他は1時間半です。はじめに体を痛めないよう柔軟を行い、足の打ち方の練習、最後に振付けをやります。レッスンではあまり同じ事を繰り返さないようにしています。みんなが退屈しないように、と思って。

 いま、発表会に向けてみんな一生懸命練習しています。今回は中上級クラスの生徒のソロだけなんですよ。今回初めてソロを踊る人もいます。ソロを踊ることを通して成長していって欲しい、そう願っています。

 よく、まわりの方に「またスペインへ戻りたいでしょう?」と聞かれますが、不思議なことに、それほどでもないんですよ。自分の中にスペインがあるんです。不思議なことに、日本で生活しているのに、スペインの多くの瞬間を感じることができるんです。日本、スペインの両地で同時に生きているというような。

 ですから、あまりスペインを追っかけなくてもいいんです。自分の中に創り上げていくことが大切なんだと思います。

 私にとってスペインとは、踊りを磨く場所というより、人生の厳しさを教えてくれた場所です。まずは生活が基本にあって、その上に踊りがある、ということを教えられました。辛いことがたくさんありましたから…。これまでにたどってきた道をもう一回やれと言われたら、絶対に嫌だと言いますね(笑)。

 でも、私にとっては全て必要なことだったんだ、と今は思っています。だからこそ、今の私があるんですよね。スペインでの15年間には、心から感謝しています。


取材・文 轟 志津香