第47回

河野麻耶さん(舞踊家)

 グラナダ在住の河野麻耶(かわの・まや)さんの公演が静岡、仙台、東京で行われる。8歳でフラメンコを始めた彼女の「舞踊生活20周年公演」。10歳で初のフラメンコ留学を果たし、15歳の時に新人公演最年少奨励賞を受賞。22歳でフラメンコ関連の会社を設立し、現在はカンタオール(フラメンコの歌手)である夫のホセ・デ・ラ・マルガラとグラナダのアルバイシンに住む“伝説のバイラオーラ(女性舞踊手)”が、4年ぶりに日本の舞台に立つ。


河野マヤ フラメンコ舞踊生活20周年記念公演
「Raicès Flamencas」〜フラメンコの根源〜は  
11月12日(金)静岡、14日(日)仙台、
17日(水)東京で開催
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 ふだんはグラナダに住んでいますが、日本には頻繁に行き来していますよ。世田谷(池ノ上)と静岡、浜松、下田、あと仙台に教室があり、静岡には新しいスタジオを作りましたしね。

 日本での公演は4年ぶりです。今回のタイトル「Raices Flamencas」というのは“根っこ”という意味。私なりにフラメンコの根源的なものを追及しようという試みなんです。

 フラメンコには大別して二つの説がありますよね。一つはインドからジプシーが持ってきたという説。もう一つはアラブの音楽にアンダルシアの人たちがメロディーをつけたという説。私が公演のために選んだのは後者の方で、1曲目のブレリアから始まって、ヌメロ(フラメンコの曲)で時代を追っていこうという試みなんです。

 前にもこのテーマで公演を行ったことがあるのですが、今回はそれをバージョンアップしたもの。私が踊る曲の一つにタラントがあるのですが、これは18歳の時に開いたリサイタル「Soy gitana」の振付で踊ります。10年の間に私にもいろんなことがあり、そういう“人生の重み”といったものを出せればいいなと思っています。

10歳でスペインに留学
「私の幼なじみはみんなスペイン人」

 フラメンコを始めたのは、横浜のカルチャー教室に父に連れられて行ったのがきっかけでした。

 私の名前の「麻耶」は、父が学生時代に見た映画『バルセロナ物語』に出演していたカルメン・アマヤに感動して名付けたらしいです。特にフラメンコを習わせようという考えはなかったそうですが、7歳、8歳の時に物事を始めると脳の働きがよくなると本で読んだようで、ミュージカルや歌舞伎、宝塚、バレエなどいろんな劇場に連れて行かれました。その中で、私としてはフラメンコが気にいったみたい。よく覚えていませんけど(笑)。

 横浜のカルチャーで教わったのは田中美穂先生。大勢の大人に混じって、一つ年上の宮野ひろみちゃんがすでに習っていました。彼女はすごくきちんとした子だったので、よく宿題を手伝ってもらったりもしましたよ。私は7月にクラスに入って、10月には発表会に出演したのですが、その後も彼女と二人、子どもコンビとして舞台で踊ることが多かったですね。でも、子どもだけどギャラはきちんともらっていました。美穂先生はそうして、私たちに仕事の意識を持たせてくださったのだと思います。

 10歳の時、初めてスペインに留学しました。ちょうどクリスマスの頃。美穂先生が先に行かれていて、私が後から合流したんです。当時はまだマドリッドの地下鉄の車内の灯りが裸電球だったのを覚えています。その時は短期の滞在だったけれど、それ以来、ほとんどスペインに行きっぱなし。というか、人生の半分以上はスペインにいる気がします。

 でも高校はちゃんと日本で卒業しましたよ。学校にはほとんど行ってなかったけど(笑)。住民票もその頃までは日本にあったはず。ただ、学校の思い出はほとんどないですね。私の幼なじみというと、日本で言えばギタリストのホセ・アントニオ・アセベドであり、また、国立バレエのホセ・マヌエル・ブソンといった、スペイン人のフラメンコ仲間しか思い浮かばないんです。

 子どもの頃から、日本では常に周囲が大人ばかりの環境で生きてきたけれど、反抗期はありましたよ。といっても私の場合、ディスコやクラブに行ったりというのではなく、日本だとカサ・デ・エスペランサ(東京・高円寺にあるタブラオ)に行ったり、新宿ゴールデン街の「ナナ」(フラメンコ居酒屋)に朝までっていうパターンでしたけど(笑)。

「主人とは私が中学1年の時に知り合いました。マドリッドの以前のアモール・デ・ディオスの隣にあったカフェテリアで顔見知りになって、そのうち仕事もいっしょにするようになったんです」。夫のホセ・デ・ラ・マルガラは今回の日本公演でカンタオールとして出演

スペインでの生活に育まれた踊り
「今は100%の力を出し切らなくても踊れる」

 最近になって、ようやく力を抜いて踊れるようになった気がします。10代の頃はいくらでも回転できるし、足の動きも速いし、長時間踊っても平気だったけど、最近はそういう難しいことはやらなくてもいいんだと思うようになりました。

 今から10年前、18歳の時にもエルフラメンコでリサイタルをやったのですが、当時に比べると、今は「頑張らなきゃ」という肩の力が抜けたみたい。いい意味で大人になったのかな。10年前のビデオを見ると、すごく荒削りというか、常に100%の力を出し切る踊りをしていました。でも今は80%でいいと思えるようになった。100%になるのは一瞬でいいと。

 私の場合、若くしてフラメンコを始めた分、踊りを終えるのは早いかもしれません。今も日本では週に24時間教えているし、やはり、どんなにケアしても故障が起きてくると思います。40歳くらいで引退かなあ。でも、スペインのバイラオーラはみんなそれくらいになったらスパッとやめちゃいますからね。ふつうのことなんですよ。スペイン人は“フラメンコ病”ではないんです。

 日本人は踊りにおいてもすごく技術があって覚えるのが得意だけど、スペイン人とはフラメンコに対する考え方が違うと思うんです。スペインでは、まず自分があって家族があって、その隣にフラメンコがある。日本人はフラメンコに人生をかけるというか、“フラメンコ病”の人が多いような気がします。私にとっては、フラメンコに限らずスペイン人の考え方の方が合っていたのかな。すごく楽なんです。プロの踊り手になるなら、のめり込む時期がなければいけないのも一瞬はあるんですが…。

 ある時、スペイン人ギタリストに言われたんですね。「君の踊りはあまりにもちゃんとしすぎていてミスがない。つまらない」って。その一言が、やっぱり私はスペインに住んだ方がいいのかもしれないと思うきっかけになったような気がします。日本にいると、どうしても一日中教えている事が多いので、機械っぽくなってしまうから。

 私のスペインでの今の生活はというと、主人に朝食を作った後、掃除。会社で仕事をした後は市場で買い物、帰ったら下着にまでアイロンをかけて洗い物。2時間かけて昼食を作って、それからスタジオでレッスンという毎日。生活の匂いがいっぱいでしょ?でも、フラメンコというのは生活があって生まれたものだし、踊りにも生活が滲み出るくらいでないといけないのではと思います。外国人がスペイン社会に溶け込んで、地に足をつけて生活するというのは、それはたいへんなことだけど、私の踊りも、そういう中で変わってきたのだと思います。

生き方、考え方が反映された教室での指導。「生徒さんには長く、地道にフラメンコを続けてほしい。その人の生活が踊りにも反映されます」

スペイン人講師と連携の指導体制
「フラメンコを優先せず、長く続けてほしい」

 今、クラスは東京のほか静岡に3ヵ所(静岡市、浜松市、下田市)と、あと仙台にあります。指導方針?そうですね、足は足でできていればいいから、あとは振りを通して「自分」を踊ること。フラメンコという枠の中であれば何をやってもいいという感じですね。もちろん、基礎は基礎できっちり教えますよ。特に地方のクラスはカルチャーで教えている人たちが基礎を習いに来たりしています。

 私がスペインにいる間はスペイン人の踊り手たちが入れ替わりで日本に来てくれます。クラスごとにマニュアルを作って、重点項目にそって指導する体制ができているんですよ。ホアキン・コルテスやマリア・パヘスの舞踊団にいた子たちで、実力は確か。日本語を覚えながら一生懸命教えてくれます。生徒さんもみんな頑張ってくれているから、私も頑張らなくちゃと思わずにはいられませんね。

 先ほど日本人は“フラメンコ病”という話をしましたが、私の生徒さんには生活よりもフラメンコを優先するような生き方はしてほしくありません。趣味の中の一つでいいから、無理をせずに長く続けてほしい。東京のクラスには65歳の生徒さんもいらっしゃいますが、この方は何と、私が美穂先生のところに入った時にトリで踊っていた大先輩。すでに20年以上のキャリアです。今度の公演にも出演してもらうのですが、カッコいいですよ。決して誰の真似というわけではなく、踊りが完全に自分のものになっている。私もああいうふうになりたいと思うくらいです。

 今後ですか?あまり考えたことないけど、気楽に生きたいですね。でも、その日その日は全力で。あと、周りの人たちのすすめで22歳の時にパシオン・フラメンカという会社を作ったのですが、来年にもグラナダに店を出して、インターネットでの衣裳や、小物販売等もやりたいと思っています。

 今はテクニックがフラメンコといわれる時代。その意味では私は決してテクニシャンといえる踊り手ではありません。私にとって、フラメンコとは古典芸能であり、すごくトラディショナルなものという意識があるんです。フラメンコの軸といえるものがなくなってきている中、今度の公演において、テクニックではない何かを伝えられる踊りができればと思っています。

 

取材・文 藤戸良彦