| 今回のチュンベ−ラ公演について、そのきっかけや抱負などを聞かせてください。
チュンベ−ラというのは、グラナダのサクロモンテに昨年5月にオープンした市の施設Centro Internacional
de Estudios Gitanosの通称です。ここで毎年、秋から春の毎週土曜日に土地のアーティストが中心になって公演をやりはじめたんです。舞台の後ろにはアルハンブラ宮殿が見える素敵な劇場です。
サクロモンテは、以前洞窟を借りて教えたりしていた私にとっては思い出の土地。そんなこともあってチュンベ−ラの担当者に挨拶しておいたら、やってみないかとお声がかかったんです。フラメンコはスペインでは大切な文化であり、それなりに公的機関や銀行などの援助予算が組まれますから、うまくいけばそういう助成金をもらって活動することもできます。
そんなわけで今回のプログラムは市のほうで全部準備してくれますから、私は舞台のことに専念でき、ありがたいですね。構成としては昨年末、日本でのコンサートの時も一緒だったルイス・マリアーノ(ギター)、ハイメ・エレディア"エル・パロン"(カンテ)に加えてアントニオ・カンポ(カンテ)、それにパルメラの女性二人です。約1時間、グラナダでは珍しい出し物ガロティンを含めて、自分がやりたいものを出していきます。
高橋さんは昨年活動の拠点を日本に移されたそうですが。
約20年間、スペインで土地の人と一緒にやってきたわけですが、そろそろ日本の家族を大切にしたいと考えたからです。ただ、基本的な変化は日本にいる期間が長くなったということで、スペインへも年に2回ぐらいは帰ってくるので、できればこれまで同様、スペインとの関係も続けていきたいと思っています。
それだけ長い間グラナダにおられた理由は?
私はセビージャやマドリーで勉強していましたが、その後グラナダへはマリキージャのアカデミアのセビジャーナスの教師として来たわけです。しばらくして、サンブラ(Zambra=サクロモンテの洞窟を中心に行なわれていた一連の踊り唄で構成されたショー)の復興運動があって、もう年配のアーティストがこぞって出演した公演などを見て、「これは何だ!」ってある種の衝撃を受けたんです。
もともと『フラメンコって何だろう?』、それを確かめたい一心でスペインへ渡ったわけですから、サンブラの原始的な雰囲気にひきつけられました。グラナダへ来る直前までマドリーでグアヒーラを習っていたのに、もうグアヒーラはどっかへいっちゃって、サンブラのその不思議な世界に巻き込まれていったのです。
また自分も洞窟を借りて練習したり、クラスをしたりしていました。また、マリキージャのアカデミアでセビジャーナスを教えながらタブラオで踊り始めた。そこで経験したことは大きかったですね。
ある日突然、目覚めたんです。何かこらえてたものが、ある種の怒りのような感情となって爆発する感じ。一時期、誰でも目覚める時があると思うのです。ばーっとやっちゃうっていう。それをどういう風にコンパスに乗せてやっていくかという。誰でも長くやっていると何かこう、一つ皮がむける時がある。ただ平坦に遣ってたんじゃいつまでたっても変わらない…。
ここでの生活や人間関係などが、私にとっては強烈で刺激的だったともいえると思います。勉強だけをするためだったら、もっといろんなところへいったかも。そうじゃなく、私の場合"生活する"というのがあったから、一度知り合いができたら一つの土地に腰を落ちつけないと道も開けないと思い、とにかくその時その時を一生懸命やってきたということですね。
最近のグラナダのフラメンコの傾向は?
若いアーティスト達が育って頼もしくなってきました。カンテのエストレージャ・モレンテとか、踊りではジェルバブエナ、ホアン・アンドレス・マヤなど、皆それなりにしっかりした基盤の上に自分の新しいものを出していくタイプで素晴らしいアーティストだと思います。ただ、一般的に踊りはブラソより足。コンパスの面白さに重点がいって、上体のアルテが乏しいのは残念ですね。
普段の高橋さんはどんな暮らしをされているのですか?
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今は、グラナダの私のスタジオ兼自宅で朝なるべく早く起きて、午前中練習して午後も練習して…。練習に明け暮れる毎日です。
ただどうしても済ませたい用事と練習時間が重なる時もあって困っちゃう。日本ではスタジオを持っていないので、こうはいかないですね。うっかりするとクラスだけになってしまうし、公演の前は事務に追われてしまう。今年は日本の家の中の整頓などに追われています。何しろ20年間ほっぽらかしにしていましたから(笑)。
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高橋さんはこれまで日本で"ぺヌルティモコンサート"と題してシリーズで公演していらっしゃいますが、これからの予定は?
ぺヌルティモとは最後から2番目ということ。これについては逸話があって、私が最初にグラナダでコンサートを開いた時、もうこれで「最初で最後だから…」っていったら、ある人に「そんな最後だなんて言ってはダメ。ぺヌルティモよ。これからもがんばって!」と言われたんです。それがとても励ましとなって。だから私のコンサートは、いつでもぺヌルティモなんです。
自分なりに大きな流れはあって、96年にグループを組んだりいろんな舞台活動をやった後、半年間日本へ帰るっていったら、ペーニャ・プラテリアでオメナッヘ(Homenaje=敬意と友情を表する催し)をやってくれたんです。
日本で教えはじめたのはその後97年から。あれから5年たって、やっと日本で私なりの教え方ができるようになった感じですね。
この20数年間かけて私が追い求めたフラメンコを、日本の皆さんにそのままの形で感じ取ってもらいたいと思うんです。誰でも唄える"みんなのルンバ教室"なんかも開催したりしています。これからは自分のこれまでのスペイン生活や私にとってのフラメンコなどをまとめて小冊子にしたい、生徒の発表会もやってみたいし、自分のライブ「きもったま鍋」も再開したい。それから私なりのスタイルや振付けをまとめること、そして残りのぺヌルティモ・コンサートを続行することですね。とにかく体力をいかに維持してパッションを保ち続けることができるにかかっていますね。
それにしても高橋さんが日本人としてはじめて、難しいグラナダのフラメンコ界で長い間に渡ってご活躍してこられたのはすばらしいですね。
そんなことはないです。懲りずに長く続けているからフラメンコの神様が時々助けてくれるんだと思ってます。会社生活に見切りをつけて20代後半でスペインへ渡って、無我夢中で現地に飛び込んでそこでの出会いや学んだことを大切にしてきただけ。よいこともあったし、思い出したくないこともありました。
ただ、いつでも一人のアフィシオナードとしてこつこつフラメンコをやってきて、その中で生まれた夢を追い続けて来た。そして、やるっきゃないと自分に義務づけてやってきた。失敗もしたけれど、そこからまた、もっとちゃんとしなくちゃという課題ができちゃって。だから、いつになったらのんびりできるのかしらって思いますけどね(笑)。
最後に高橋さんにとってフラメンコとは?
何なのでしょうか。難しい質問ですね。私が生きていくための不可欠な材料とも調味料とも言えましょうか…。
私は昔から生きていく中で、自分の作品を作りたいと思っていたんだと思います。私は恵まれていますよね。フラメンコに出会ったおかげで、自分をより自分らしく、純粋に表現できる方法を見い出すことができたからです。これからもフラメンコとつきあっていく自分の人生は、どんな作品になるんでしょうね?
取材・文/角田美恵子
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