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2002年の夏、3ヶ月ほど日本に滞在し、9月半ばにまた、南スペインの町、ヘレス・デ・ラ・フロンテーラに戻った。丁度「秋の収穫祭」の真っ最中で、山ほどのイベントが企画されていた。
その中でも、私が一番注目したものは、フラメンコの歌を歌う12のジプシーの家族が、毎晩日替わりで出演するというステージだ。
どの家族も「この歌を私のファミリーに捧げます」とコメントしてから歌い始める。そして、その思いのたけをそのままぶつける歌い方をする。なんて個人的なレベルのアートだろうか。大観衆を前に、うちんとこの父さんと母さんと、うちんとこの子供たちのために歌う、という。それじゃあ、家族でも何でもない普通の客の私たちは?と言いたくなる。
一般的な音楽のステージでは「今日来てくれたみんなのために!!」とやるはずだ。当然である。お客様は神様です。ファンなくして、アーティスト業は成り立たない。しかし、このフラメンコたちは大きな声で「うちの家族こそ世界一!」と自慢し、その次に付け足すようにして観客の方々へ、がくる。
がしかし、この感情が本音中の本音であることを私たちは知っている。そう、フラメンコの歌には、本音が、真実が詰まっている。飾り気がない。あってもこの本音があってから飾るので、嫌味がない。素を偽るために装飾された声で歌われたら、フラメンコとしての魅力は(私にとっては)半減である。
真実は自分に聞く。どこに行ったらいいのか(どう表現したらいいのか)を、本音というガイドに任せるのだ。
ここでいう本音とは「欲」ではない、(ちょっと口にするのが恥ずかしいが)「愛」ある。愛はたくさんある。人の数の何倍もあるだろう。でもその愛を語るのは簡単ではない。勇気がいる、照れくさいし、ときにはせっかく獲得したものを失ってしまう。愛を語る詩を書いて、口ずさむのは容易い。しかし、それを自分自身の愛に忠実に歌うのはけっこう難しい。やったことのある人なら分かると思うが、なぜなら、傷つくというリスクを伴うので臆病になってしまうのだ。
私は日本を発ってから約7年になり、ヘレスに落ち着いてから4年が経とうとしている。こんな遠くまで何かを求めに来て、さらに時間もかけて、そして発見し、実感したことが、今まで身近にあった「家族の絆の有り難さと大切さ」だとは、、、。
だいぶ遠回りした。でも、そうせずには感じとれなかったことが今までにたくさんあった。そして、これからもまだここでの生活を続ける。なぜだろう。なぜ私はこんなに長くスペインにいるのだろう。
それはこれから探すとする。

市場に魚を買いに行った。特大の魚以外は丸ごと売っている。買ってから開いてもらったり、輪切りにしてもらったりする。切り身も厚さを注文できる。たまに外人だと思ってぼられたり、だまされたり、横入りされたりする。そして、家に帰りお昼を作る。お皿にのった「サバ」を見て、ああ、私は魚を食べるんだなあ、と思う。魚には目があった。口があった。はらわたがあった。では、いただきます!

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